こころとからだの平和(二日目)

コラージュ

昨日は「こころ」と「からだ」と「平和」についてそれぞれイメージすることろを綴ってみました。

2日目の本日は、「こころの平和」および「からだの平和」について考えてみようと思います。

 

 

こころの平和(こころの調和)

 

私にとって「存在感のある空っぽの空間」は放っておいても調和する存在です。

例えとても乗り越えられそうにない辛い出来事に遭遇したとしても、「存在感のある空っぽの空間」はその出来事を淡々と飲み込み、いくらかの時間をかけて私という存在の糧とし、そしてまた穏やかに安定していきます(もちろん、出来事の大きさによってはとても長い時間が必要になるかもしれません)。

つまりことさら平和を保とうとするまでもなく、「存在感のある空っぽの空間」はそれ自身で調和する強力な機能が初めから備わっているのだと思います。

 

一方で「私」は絶えず揺らいでいます。

何かが刺激となり、様々な思考が生まれては消えていきます。「喜び」や「楽しさ」や「心地よさ」を感じることもあれば、「怒り」や「悲しみ」や「苦しみ」を感じることもあります。

ずっと大事に持っていた信念でさえも、時とともにゆるやかに(または激しく)変化していきます。

そんな「私」の中に安定した状態など存在していないと思ってしまうのも無理はないかもしれません。

 

私が思うのは、自然環境や社会環境やごく身近な人間関係など、本当に様々なことが要因で絶えず揺れ動いているのが「私」の本来の性質なのではないかということです。

そしてその本来の性質を発揮しているという点で、揺れ動いている「私」もやはり調和している存在なのだと思います。

 

もし調和を乱すことがあるとしたら、それは本来の揺れ動く性質を阻害したときではないかという気がします。

例えば純粋な怒りや悲しみを極度に我慢したり、過去を反芻することで一つの思考や感情にしがみついたりしたとき、「私」は簡単に乱れてしまい、右も左もわからない状態となり、本来の調和したリズムを刻めなくなってしまうのだと思います。

 

 

からだの平和(からだの調和)

 

「私」の場合と同じように、「からだ」も揺れ動く性質を持っています。

見たもの、聞いたもの、食べたもの、触れたもの、嗅いだものが刺激となり、からだは自身を刻々と変化させていきます。

外からの刺激が強すぎると一時的にからだの調子が乱れてしまいますが、さらに無茶な刺激を与えない限りは、そんな不調もいつの間にか自然に治まっていきます。

 

つまり「からだ」も、揺れ動きながら自然に調和していく存在なのだと思います。

 

「私」と同様に考えるなら、からだの調和を乱すのもやはり、本来の「からだ」の性質を遮る行為なのではないでしょうか。

例えば

  • 日常的に夜更かしをする(寝すぎる)
  • 日常的に食べすぎる(食べなさすぎる)
  • 過剰に運動しすぎる(運動しなすぎる)
  • ストレスを抱えすぎる(ストレスを極度に避ける)

など、長期に渡って過度な刺激を与え続けることとによって(または刺激を全く与えないことによっても)からだは簡単に乱れてしまい、ついには平和とはほど遠い状態になってしまうような気がします。

 

 

以上をまとめると、

  • 「存在感のある空っぽの空間」はどんなときでも静かに安定している
  • 「私」は揺れ動くことで調和している
  • 「からだ」も揺れ動くことで調和している
  • 自然な揺れ動きを無理やり遮ってしまうと、こころやからだの平和(調和)は乱れる

といった感じになるかと思います(しつこいようですが、あくまで私の中のイメージです)。

 

 

なぜ私が「こころとからだの平和」について若干理屈っぽいこんなイメージを持っているのかというと、それは一重に「便利だから」という一言に尽きます。

私の場合、このイメージを使うことによって「ちょっとしんどい状況」に対して適切な意味づけをすることができ、格段に「こころ」と「からだ」をメンテナンスしやすくなるのです。

 

明日はそのあたりのことについて少し書いてみたいと思います。