あなたはあなた、わたしはわたし

他人のことは(たとえ血のつながった家族であっても)理解することはできない、というのが私の持論です。

 

こんな考えを持つようになったのは、 数年前に受講したとある心理学系の講座での経験がきっかけでした。

この講座の修了には約100時間の傾聴訓練(カウンセラー役や相談者役になって、ひたすら話を聴いたり聴いてもらったりを繰り返し、フィードバックし合う訓練)が必要なのですが、
当時はどんなに相談者役の人の話を聴いても、相手の「本当に訴えたい想い」はおろか、「今まさに感じている感情」すら正確に理解することのできない自分に気づき、愕然としたのを覚えています。

 

そんな中、相談者役の方に対して講師が言った次の言葉にはずいぶん目から鱗が落ちました。

曰く、

あなたは、たかだか数十分の傾聴で理解されるほど底の浅い人間ではない。

 

人のことを100%理解しようとするなら、その人の人生をゼロからもう一度体験するくらいの時間と根気を捧げる覚悟が必要なのだと思います。

しかしそんなことは現実には不可能ですし、そもそも気質も体質も違う人間が他の人と同じ体験を重ねたとして、同じ感情や考えを持てるとは限りません。

そうなると、「もっと親身になって話を聴きさえすれば、その人のことを全て理解できる」と考えるのは、実はその人の人生に対してとても失礼なことなのかも知れないなと、思い至るようになったのです。

 

「人のことを理解することは不可能」という基本的なスタンスのおかげで、私のコミュニケーションのあり方もずいぶん様変わりしました。

例えば、

  • 人の話を聴く時、「聞いてあげている」という感覚ではなく、「教えてもらっている」という感覚をもつようになった
  • 人に対して一方的な過度の期待(この状況なら当然⚪︎⚪︎してくれるはず といった期待)を持たなくなった
  • 自分の気持ちを察してもらうことを期待するかわりに、正確に言葉で表現する努力をするようになった
  • 例え理解が困難な人が現れても、それはそれとして受け入れることができるようになった
  • 例え理解されない場面に直面しても、それはそれとして受け入れることができるようになった

など、総じて人とのコミュニケーションにストレスを感じることが少なくなった気がします。

 

そして人の想いのほんのひとかけらでも理解させてもらえたと感じた時、

もしくは自分の想いのひとかけらでも理解してもらえたと感じた時、

それは本当に奇跡的で、素晴らしい体験なのだとしみじみと思うようになった今日この頃です。

 

 

Gestalt prayer
ゲシュタルトの祈り

I do my thing and you do your thing.
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。

I am not in this world to live up to your expectations,
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。

And you are not in this world to live up to mine.
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。

You are you, and I am I,
あなたはあなた、わたしはわたし。

and if by chance we find each other, it’s beautiful.
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。

If not, it can’t be helped.
出会えなくても、それはそれでしかたのないこと。