こころとからだの平和(一日目)
とある経緯により、「こころとからだの平和」というテーマで3日連続文章を綴ることになりました。
とっても抽象的で、それゆえに(一般論でお茶を濁すのでなければ)自分の中身を晒け出さないといけないような難しいテーマですが、私の今の暮らし方にもつながっていきそうなテーマでもありますので、ちょっとがんばって書いてみようと思います。
早速ですがまず、私にとっての「こころ」と「からだ」と「平和」 の定義を明らかにしておこうと思います。
定義というと堅苦しく感じるかもしれませんが、要はこれらの言葉を聞いたときに私の頭に浮かんでくるイメージみたいなものです。
我ながら荒唐無稽な部分もありますので、どうぞファンタジーみたいなものだと思って読んでくださいね(笑)
こころとは
私が「こころ」と聞いて頭に浮かぶイメージは2つあります。
1つは「色も形も質量も善も悪も何もない空っぽの空間」。
この空っぽの空間は見ることもできず、触ることもできず、完璧にイメージすることもできませんが、とにかく存在感だけはあり、どんなときでも静かに安定しています。
身近なもので例えると、私が好きでよく行く宮島のククノチの聖木のような存在感でしょうか。
そしてそんな「存在感のある空っぽの空間」に寄り添うように存在しているもう1つの「こころ」が、「私が『私』と感じているもの」です。
この「私」の中には、信念・思考・感情などの、「『存在感のある空っぽの空間』よりもさらに具体的なもの」が含まれています。
「存在感のある空っぽの空間」はなんらかの意思を持ち、「私」を使ってより具体的な何かをアウトプットし、同時により抽象的な何かをインプットしているのだと思っています。
からだとは
私にとって「からだ」は「私」を構成する要素の一部であり、「私」と外部(他者や社会環境や自然環境など)とを繋げるための大事なインターフェースでもあります。
「からだ」が受けた外部からの刺激は即座に「私」に影響を与えますし、「私」の状態や意志も速やかに「からだ」に反映され、「からだ」を通して外部に影響を与えます。
そういう意味で「私(こころ)」と「からだ」は、お互いを完全に切り離しては考えられない存在なのだと思います。
平和とは
私にとって「平和」は「調和している」ことと完全に一致しています。
調和しているというのはつまり、「自然の法則にしたがっている」ということです。
このあたりの感覚は、私が学生時代に専攻していた物理学からの影響が大きいかもしれません。
というのも、そもそも「自然界の調和」を確信していなければ成り立たないのが物理学だからです。
そんな視点でみてみると、逆説的に「この世界は根本的に平和である(自然の法則に従っている)」と言い切ってしまえるのではないかと思っています。
以上をまとめると、
- こころには「存在感のある空っぽの空間」と「私」の2つがある
- 「存在感のある空っぽの空間」はより抽象的で、「私」はより具体的
- からだは「私」を構成する要素のひとつ
- 平和 = 調和 = 自然の法則にしたがっている
ということになるかと思います(あくまで私の中でのイメージです)。
明日はこれらのイメージを1つにつなげて考えてみようと思います。